理化学研究所(理研)光量子工学研究センター 画像情報処理研究チームの太田 聡史 特別嘱託研究員、横田 秀夫 チームディレクターらの国際共同研究グループは、1細胞RNAシーケンス(scRNA-seq)[1]データから推定した体細胞変異[2]を利用して、細胞の「進化の記録」といえる正常組織内の細胞系譜[3]と細胞多様性を再構築する新しい解析手法を開発しました。
本研究成果は、発生生物学、再生医療、老化研究などにおいて、正常組織の形成過程や細胞運命決定の理解を進める新しい解析基盤となることが期待されます。
国際共同研究グループは、正常細胞に自然に蓄積する少数の体細胞変異を利用し、系統学[4]の手法を応用することで、scRNA-seqデータのみから細胞系譜を推定する解析法を開発しました。シミュレーションとヒト胎盤のscRNA-seqデータによる検証の結果、本手法が細胞間の進化的な系統関係を高い精度で再構築できることを示しました。
本研究は、科学雑誌『DNA Research』(8月25日付)に掲載されました。
1細胞RNA配列データから正常組織の細胞系譜と細胞多様性を再構築する新手法を開発
背景
多細胞生物では、一つの受精卵から膨大な数の細胞が多様な機能を持つ細胞へと系統的に分裂・分化していきます。これらの細胞がどのような系統関係を持ちながら組織を形成したのかを明らかにすることは、発生生物学や再生医療の重要な課題です。
近年、1細胞RNAシーケンス(scRNA-seq)の発展により、1細胞ごとの遺伝子発現を高精度に解析できるようになりました。現在はscRNA-seqデータから抽出した変異に係る遺伝子発現パターンから細胞分化の流れを推定する解析法が主流ですが、これらは細胞状態の類似性を利用した推定であり、細胞同士の実際の系統関係を直接推定することはできません。また、体細胞変異を用いた従来の細胞系譜解析は、がん細胞など突然変異の多い細胞を対象とすることが一般的であり、従来の細胞系譜解析を正常組織へ適用することは容易ではありません。
細胞が分裂する際には、DNAの複製に伴ってわずかな変異が生じ、それらは体細胞変異として細胞に蓄積されます。ある細胞で生じた体細胞変異は、その細胞から分裂して生じた子孫細胞にも受け継がれるため、細胞がたどってきた分裂の履歴を記録する目印となります。このため、細胞間で体細胞変異を比較することで、細胞間の系統関係を推定し、細胞系譜を再構築することができます。しかし、正常細胞に蓄積する体細胞変異は、がん細胞などと比べて少数です。また、scRNA-seqは主に遺伝子発現を解析する技術であり、DNAそのものを網羅的に解析する手法ではないため、scRNA-seqデータからDNAの複製に伴って生じる体細胞変異を抽出することは困難と考えられていました。
そこで国際共同研究グループは、scRNA-seqデータ中に偶然観測される正常細胞の体細胞変異を最大限活用し、系統学的解析と組み合わせることで、正常細胞の系譜を再構築する新たな解析手法の開発を目指しました。
研究手法と成果
国際共同研究グループは、scRNA-seqデータに含まれる正常細胞の体細胞変異から細胞系譜と細胞多様性を再構築しました(図1)。
図1 体細胞変異を利用した細胞系譜再構築の概念図
正常細胞由来の1細胞RNAシーケンス(scRNA-seq)データから体細胞変異を推定し、細胞間の遺伝距離を算出することで、分子系統学の手法を用いて細胞系譜を再構築する。さらに、再構築した細胞系譜とscRNA-seqデータから抽出した体細胞変異に係る遺伝子発現情報を組み合わせることで、細胞の分化過程や細胞多様性の形成を解析できる。
まず、組織から単離した正常細胞のRNA配列をscRNA-seqにより1細胞レベルで抽出し(図1の1)、抽出したRNA配列中の塩基の違いから各細胞に存在する体細胞変異を検出しました(図1の2)。体細胞変異パターンの違いに基づいて、細胞間の遺伝距離(分子進化学的距離)を算出しました(図1の3)。分子系統学で広く用いられている進化系統樹(生物の系統関係を描いた樹状図)推定法を算出結果に適用することで、細胞系譜を再構築しました(図1の4)。
さらに、多数のシミュレーションを行い、「体細胞変異数」や「細胞数」、「アレリックドロップアウト[5]」、「RNAシーケンス特有の欠損」などが細胞系譜の再構築の精度に与える影響を評価しました。
その結果、一定数以上の体細胞変異が得られれば、高い精度で細胞系譜を再構築できることを示しました(図1下中央)。また、ヒト胎盤の細胞は、受精から出生までの約10カ月という限られた期間に蓄積した体細胞変異しか持たないにもかかわらず、実際の胎盤scRNA-seqデータから細胞型(機能や形での細胞分類)に対応した系統的な分岐構造を再構築できました。さらに、再構築した細胞系譜と遺伝子発現情報を統合することで、細胞間の系統関係と細胞多様性を併せて解析できることを確認しました。
本研究で開発した解析手法は、正常細胞に自然に蓄積した体細胞変異を細胞の「進化の記録」として利用して、細胞同士がどのような祖先・子孫関係にあるかを表す細胞系譜を直接推定できます。従来の遺伝子発現パターンの類似性から分化経路を推定する解析とは異なり、進化的履歴そのものを利用するため、細胞分化過程をより直接的に解析できます。
今後の期待
本研究の成果は、既存のscRNA-seqデータを利用して細胞系譜を推定できるため、新たな実験を追加することなく、多数の公開データへ適用できます。
今後は、発生生物学の発生過程の解析や老化研究の老化に伴う細胞変化、再生医療における組織再生や幹細胞研究、がんの進化解析などにおいて、正常組織の形成過程や細胞運命決定の理解を進める新しい解析基盤となることが期待されます。
また、本手法は細胞多様性と細胞系譜を統一的に解析・視覚化できることから、正常組織がどのように形成・維持されるかを理解する新しい解析基盤となることが期待されます。
補足説明
- 1.1細胞RNAシーケンス(scRNA-seq)
個々の細胞ごとの遺伝子発現を網羅的かつ定量的にその量や種類を決定する方法。1細胞ごとにRNA量を定量できるため、細胞ごとの多様性の把握や特異的マーカー遺伝子の同定、これまで検出が困難であった少数の細胞集団の発見が可能となり、組織を構成する細胞タイプや状態を詳細に分類するのに役立つ。 - 2.体細胞変異
生涯を通じて細胞分裂の過程でDNAに蓄積する突然変異。親から子へは遺伝しない。 - 3.細胞系譜
どの細胞がどの細胞から分裂して生じたかを表す系統関係。 - 4.系統学
DNA配列などを用いて生物の進化的な系統関係を研究する学問。本研究ではこの考え方を細胞集団の解析に応用した。 - 5.アレリックドロップアウト
scRNA-seqにおいて、細胞が持つ二つの対立遺伝子のうち、一方が検出されず、遺伝情報の一部が欠落する現象。体細胞変異の検出や細胞系譜の推定精度に影響を与える。
国際共同研究グループ
理化学研究所
光量子工学研究センター 画像情報処理研究チーム
チームディレクター 横田 秀夫(ヨコタ・ヒデオ)
特別嘱託研究員 太田 聡史(オオタ・サトシ)
バイオリソース研究センター 動物変異動態解析技術開発チーム(研究当時)
チームリーダー(研究当時)阿部 訓也(アベ・クニヤ)
(現 遺伝子発現エピゲノム研究チーム 業務アドバイザー)
生命医科学研究センター 遺伝子制御ゲノミクス研究チーム
研究員(研究当時) チェン・ツァン・パン(Cheng-Tsung Pan)
(広島大学 大学院統合生命科学研究科)
シカゴ大学(米国)生態進化部門
教授 ウェンシャン・リー(Wen-Hsiung Li)
(台湾中央研究院 生物多様性研究センター 教授)
国立遺伝学研究所 遺伝情報分析研究室
准教授 池尾 一穂(イケオ・カズホ)
研究支援
本研究は、理研ギャップファンドにより実施し、日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事業新学術領域研究(研究領域提案型)「予防を科学する炎症細胞社会学(研究代表者:松島綱治)」「単一細胞シークエンスデータに基づく細胞社会学のための情報手法の開発とデータ解析(研究代表者:池尾一穂)」による助成を受けて行われました。
原論文情報
- Satoshi Oota, Kuniya Abe, Cheng-Tsung Pan, Hideo Yokota, Wen-Hsiung Li, Kazuho Ikeo, "Reconstruction of Cell Diversity and Cell Lineages from Somatic Mutations in Single-Cell Transcriptomic Data", DNA Research, 10.1093/dnares/dsag007
発表者
理化学研究所
光量子工学研究センター 画像情報処理研究チーム
チームディレクター 横田 秀夫(ヨコタ・ヒデオ)
特別嘱託研究員 太田 聡史(オオタ・サトシ)
報道担当
理化学研究所 広報部 報道担当
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