1. Home
  2. 理研について
  3. 男女共同参画・ダイバーシティ推進
  4. 理化学研究所女性PIオーラルヒストリープロジェクト:PIへの軌跡

メンバー全員が主役になる場を作るラボ・マネジメント

大竹 淑恵 チームディレクター(D.Sc.)

略歴

1984年 早稲田大学理工学部 物理学科 卒業
1989年 早稲田大学 大学院理工学研究科 後期博士課程 物理学及応用物理学
素粒子原子核理論専攻修了 理学博士取得
1989年 国立茨城工業高等専門学校 電子情報工学科 助手
1990年 国立茨城工業高等専門学校 電子情報工学科 講師
1993年 京都大学 大学院物理学研究 科素物性物理学研究室 研究員(文部省研究員)
1995年3~8月 ラウエ・ランジュバン研究所(フランス)研究員
1996年 理化学研究所 SPring-8合同チーム 協力研究員
1997年 理化学研究所 播磨研究所 エックス線干渉光学研究室 研究員
1998年 理化学研究所 播磨研究所 エックス線干渉光学研究室 先任研究員
2003年 理化学研究所 放射線研究室 先任研究員
2011年 理化学研究所 社会知創生事業イノベーション推進センター
ものづくり高度計測技術開発チーム 副チームリーダー
2013年 理化学研究所 光量子工学研究領域(2018年より光量子工学研究センター)
中性子ビーム技術開発チーム チームリーダー
2020年~ ニュートロン次世代システム技術研究組合(T-RANS)理事長
2023年~ 日本中性子科学会 会長
2023年~ 株式会社ランズビュー(理研発ベンチャー)チーフテクニカルアドバイザー
2025年~ 理化学研究所 光量子工学研究センター
中性子ビーム技術開発チーム チームディレクター

プロジェクト説明

足立:このプロジェクトは、前理事でいらした原山先生のご縁で、Elsevier Foundationからサポートいただきました。特に、初めてPIになった人や、若手の研究者に何か参考になるようなお話をということで、今回はサイエンティフィックな話ではなくて、リーダーシップやラボのマネジメントについてなどのお話を伺っていきたいと思います。大竹先生のCV(履歴書)がなかなか見つからなかったのですが、AERAの記事を拝見させていただきました。非常に興味深い記事でした。

大竹:あの記事はちょっと個人的な所に焦点を当てていただいてしまいました。どうしよう、私はこれから外を歩けるんだろうかと思いましたけれど。

足立:そちらにCVが載っていたので今回拝見し、その時系列に沿って質問をしてまいります。よろしくお願いします。

大竹:よろしくお願いします。

博士号取得時のキャリアビジョン

足立:大竹先生は1989年に早稲田大学で博士号を取られました。その時、社会人として、研究者としての展望をどのように描いていらっしゃいましたか?

大竹:学位を取得した時には、何しろ研究者として続けていきたいと(思いました)。研究活動を続けられる所でポジションを得て、続けていければと思っていました。学位を取った時は原子核素粒子の理論だったんですけれども、分野も全く限ってなかったですし、むしろ物理学に関係している研究を一生続けていきたいと思っていました。

足立:物理に関するお仕事ができるということで、1989年に茨城工業高等専門学校に就職されたのですね。

大竹:そうです。ちょうど新しい学科を茨城高専で作っていて、電子情報工学科という所でした。その電子情報工学科の主任教授の先生方が、「今後の情報には必ず量子論が必要なので、素粒子量子論が専門の先生にぜひ来てほしい」ということで(人を)探してらした。たまたま私の父の知り合いがそこで教授をしていらしたので、お声がかかり、そちらで教えさせていただいてました。

足立:博士号を取るあたりで結構職探しはされましたか。

大竹:しました。今、日本の国内でも博士研究員やポスドクのポジションがありますが、私が学位を取った頃はまだ国内にはそういうポジションはなくて、皆さん海外に行くか、または全然研究と関係ない形の職業を選ぶかでした。博士号を取れても取れなくても、3年間博士課程にいたら、その後は研究が続けられる所のポジションを得ようと思って、ものすごく一生懸命探しました。

茨城工業高等専門学校で研究室を構えて

足立:無事に職を得られて、そこではどのような活動をしていましたか。

大竹:非常に運が良いことに、茨城県で勝田という、水戸より一駅北に行った所にございました。勝田は、あともうちょっと行くと東海村があって原子炉があり、またJ-PARCがある。まさに中性子の実験をやる日本国内で一番大きな施設がある所のすぐ近くでした。私自身は大学院、それから博士号の研究過程で、既に理論的にですけれども、中性子の研究をしておりました。海外の、特にヨーロッパの研究者たちの実験グループと一緒に研究をしていました。この高専に就職したことは非常にプラスになりまして、日本国内での中性子実験の方たちと一緒の研究グループに入ることができました。現在こういった形でチームリーダー、プロジェクトリーダーとして加速器ベースなり、色々な中性子の装置開発をしていますが、最初のきっかけは、ちょうど原子力機構(日本原子力研究開発機構)さんが(統合する前の)当時の原研(日本原子力研究所)で、改造3号炉という新しい原子炉が動き出す頃だったので、実験設備を本当に0から作り上げるところから、全くの実験の素人の私も参加できたことです。非常に良いタイミングだったし、非常に恵まれていたと思います。

足立:理論を博士号まではやってらして、実験に移る時には割とスムーズに移られたのですか。

大竹:本当は、やっている理論(研究)を実証していただきたくて、実験グループに「これを実証するのにどういう実験がありますか」という話をしていたんです。当時入れていただいていたグループが、京都大学の原子炉実験所、京都大学理学部の方たちだったので、皆さん京都にいて、私だけ茨城県にいて、何の実験も分からない私だけ現場にいました。なので、装置を作り上げる時、近くにいるからということで、周りにいらっしゃる他の大学や研究所の先生方に教わりながら実験を覚えざるを得なかった。理論しかしませんと言ってたら何も進まない状況だったので、そういう意味でもすごく恵まれてましたね。

足立:高専のポジションでは、上司にあたる方とどのような関係だったのですか?

大竹:上司は学科主任の教授や、教授の方たちが4名いらした。私は、最初の年に助手で入って、すぐに講師になりました。講義をしながら、また実験を見ながらでした。新しく学科を作られた先生が、学科を作る時の方針として、若い人たち、若手の研究者にはなるべくdutyを少なくしてくださった。その先生曰く、「教授になる年寄りたちは、どんなに頑張ったって新しい発見はできないんだから、若い人たちには最低でも(週に)丸々1日とか1日半は自由な時間を与えて、外に行けたり、外の先生達と一緒の研究ができるように」と。私だけではなく、他の助手や講師の先生にも時間を与えて、という学科の方針だったので、ものすごくやりやすかったです。

足立:大竹先生が東海村でいろいろ実験をするということについては、ご自身の自由で、裁量で、でしたか。

大竹:そうですね。ただ、まぁそうは言っても、今の理化学研究所のように、研究をすることが職務ではないですから、どういう時間帯でやっていたかといえば、やはり仕事が終わってから。もちろん週のうちの1日は朝からできるにしても、あとの4日間とか5日間どうしていたかと言えば、学生を見て、講義をして。卒業研究の学生もいました。そうすると、そういう人たちを見ると大体夜10時ぐらいになるんですね。工業高等専門学校なので、男の子達は無限にエネルギーがあってですね、なぜか夜の方が元気で話しに来たり質問に来たりするので、大抵10時から11時ぐらいまでは高専にいて、そこから車で原研に行って、実験をして、(装置を)組み上げて、2時とか3時ぐらいになったら自宅に帰って寝て、次の日の朝8時半とか9時から講義してとか、そんな生活でしたね。はい。すごい楽しかったですけど。

足立:そうすると、その頃から大竹先生の研究室があったのですか。

大竹:そうです。高専の中に当時、教授、助教授、講師、助手といましたが、1人の先生が1つの研究室を運営し、必ず学生さんが何人かいて卒業研究を見る。高専なので5年生を見て、あとは4年生、3年生で勉強したいという子が来れば、一緒の研究室で勉強させるという形でした。最初の年はまだ学科を作って4年目で最高学年がいなかったので、私が就職して2年目から卒業研究の研究室を持って、学生指導をしてという形です、普通の講義の他に。

足立:その時点でPI的な感じでしたか。

大竹:そうですね。もちろん学科運営とかなんかは、教授の先生や学科主任の先生が全体のカリキュラムを作るであるとか、学生指導であるとかやられます。自分の研究室の中で学生が4-5人いますから、1人ずつに違うテーマを与えてそれぞれやっていくという、ある意味PI的なことをやっていました。それから当時、科研費の一番小さいものや、若手のものを獲って、お金を得ながら研究を学生たちと進めるという形でした。非常に良い経験をしていましたね。

京都大学へ内地留学

足立:それから1993年に京大に移られたんですね。

大竹:はい。高専(の教官)は当時文部省の文部教官なので、文部教官の制度として、内地留学、外地留学、「国内で研究に1年費やしていいですよ」というのと、「国外で1年費やしていいですよ」というのがありました。ちょうどその時私が行きたかったフランスの研究所が原子炉の実験室だったんですが、トラブルで1年間原子炉が止まっちゃって、ビームが出ないということでした。私自身もちょうど実験の方にどんどん移っている時だったので、一緒にやっている京大グループのうちのある先生の所で、研究員として(行きました)。だから文部省の内地留学の研究員という形で、文部省の研究費をいただいて、京都に行って1年間過ごさせてもらいました。ものすごく、ものすごくこれは有意義でしたね。その時の大学院生、私より何年か下の人たちがもう今皆さん、この分野や原子核(研究の分野)で、あっちこっちの教授としてお偉くなられていてですね。いろいろ教えていただいています、今でも。

足立:そうすると、教育のdutyはなく研究に専念を?

大竹:そうです。高専は5年制で、3年生から専門科の学科で引き受けます。学年1クラス、大体40人弱ぐらいで、3年生の学年担任をその前の年にしていました。その学生たちが4年生になる時に、私を採用した学科主任の先生が私の代わりに学年担任をしてくださって、(京都に)行ってらっしゃいということで行かせてくださいました。京都から戻ってきたらこの学生たちが1年で成長し、口も立ち、頭も多少立つようになったところでした。就職であるとか、あと半分以上が大学編入しましたので、彼らの勉強を見たりするというような形で次の年は(高専の業務に)戻ってましたね。

フランスでの研究

足立:そして1995年から半年フランスにいらっしゃる。

大竹:はい。先ほど言った、止まっていた所が再稼働したので、向こうから「来る予定だったよね」というので、「来る予定は来る予定ですけど、文部教官の地位はもうない(ので外地留学の制度が使えない)です」と言ったら、実験装置を占有させてくれたので、半年間行きました。最後の5年生を3月に卒業させて、そのままフランスに行かせてもらって、半年向こうで実験と研究をしてましたね。

足立:その時のチームの人数とかはどんな感じですか。

大竹:向こうのディビジョン長がいて、私がその装置をやらせていただいていた。そこにオランダからちょうど学生さんが1人来ていた。あと技官の方、それからエンジニアの方ということで、5人ぐらいの編成のチームの中で半年間。それから先ほど言った京都大学の大学院生が一緒にやりたいと言うので、3カ月の給費で来れるようにフランス側に招聘してもらった。一番人数が多い時は6名ぐらいのチームで実験研究を進めてました。

足立:少し前に戻ってしまいますが、東海村の実験もそのぐらいの人数でしたか。

大竹:そうですね、東海村の方は2カ所装置があって、京都大学の装置はもうちょっと規模が大きい感じで、装置開発としても2~3種類の装置の開発をしていました。もう1つは私自身が関わらせていただいた東京大学の物性研の先生がなさってた装置で、そちらは3~4人の小さい規模でしたね。2つのプロジェクト、もちろんそれぞれ教授の先生がプロジェクトリーダーでやっていらっしゃるところに入って教わりながら、そこに私自身の持っている研究課題を入れながら、皆さんと進めていくという形でした。

専門分野と身分を変えて理研へ

足立:そしてフランスから帰国されて、あまり間を空けずに理研に来られたのですか。

大竹:はい、そうですね。95年に戻ってきてから半年後にです。高専では毎年卒業研究生を私の研究室で受け入れていました。半年フランスに行っている間も、私の研究室に当時卒業研究生が2人いて、半年間の課題を3月までに(進めるよう)バーッと与えました。戻ってきてから卒業までの間、ずっと卒業研究を一緒にして、その間にフランスでやっていた研究もある程度まとまったりしたのもありました。次のポジションということで、ちょうど理研が播磨にSPring-8を作る時期でしたので、先ほどちょっと申し上げた東大物性研の先生が放射光にも関わっている先生でしたし、京都大学の先生もSPring-8との関わりがあったので、播磨の理化学研究所に入りました。

足立:そうすると、物理の専門分野では少し変えられたのですね。

大竹:そうですね。播磨へ行く時はかなり迷いました。それまで、ずっと私は中性子しか知らなかったので、放射光は、一体どうなる、どうだろうと思ったのです。ただ3号炉の1つの装置の先生が放射光と中性子と両方で実験されていた方で、相補的に使っているのは当然知っていました。ビーム利用としては同じサンプルに対して放射光を使って、中性子を使って、研究分析、解析する。そういう意味では、粒子、量子ビームとしての種類は違っても共通点は多い。また、研究所で研究をしたいと思っていたので、これだけのチャンスはなかなかないだろうと思って理研に移りました。ちょうど35歳だったのですが、まあ35歳、45歳くらいまでだったら、何か新しいことに挑戦して、サイエンスの研究分野で、新しい本当にクリエイティブなことを周りの方と一緒に作り上げられるだろうけれども、これがある程度年齢がいってしまうと、それまでの経験を基にしての積み重ねはできても、科学として全く新しい発想でというのは難しいだろうと思っていたので、できるだけ若いうちに研究に専念したいと思っていました。一方で、高専で教えさせてもらっていた時に、やはり教育はすごく大事だし、次世代を育成していくことに関わらせてもらうのは非常に人間として価値ある仕事なので、私自身が45歳とか50歳とか、もうちょっと上になった時には、今理研に移ってやりたいと思っている、関わらせてもらいたいと思っている最先端の研究ではなく、もうちょっとアプリケーション寄り、人のためになる、応用になる、またはその人材育成に関わるようなことに変えていければなぁと思って、移りました。

足立:高専もテニュア(終身雇用ポスト)のポジションでしたか。

大竹:そうです。

足立:ご自身の研究室を持っていた所から、理研に定年制の研究員で移られたのですか。

大竹:最初は協力研究員です。その前にヨーロッパへ行ったりとかいろいろしてたので、「どこに国立のパーマネントの(任期の定めのない)ポジションを持っているのを辞めて、ポスドクになる人間がいるか」とか、結構な人数の知り合いの研究者には言われました。言われましたが、「いや、今どうしても研究したいので」と言いました。私自身はどうしてもそうしたかったですね。なんでしょうね。やはり自分自身の時間の多くを研究活動に使いたいと思っていたということですかね。

足立:ではその後順調に定年制のポストが得られたのですか。

大竹:もうそれは本当に、播磨で今センター長をされている石川哲也先生の研究室に入ったので、石川先生のおかげです。中性子から放射光に行って、ほとんど役に立ってないんじゃないかと思うんですけれども。播磨理研がちょうど立ち上がった時に、定年制の研究者で採っていただきました。

足立:播磨では何年間お過ごしですか。

大竹:協力研究員で行ったのが96年で、和光に来たのが2002年か2003年かですね。私が体を壊してしまって、播磨の方ではちょっとなかなか難しくなりました。私が京都大にいた時に、理研放射線研の主任研究員でいらした延與(秀人)さんが、ちょうど助手から助教授になる頃で、一緒にやらせていただいていました。そこで、「延與さん、ちょっと私もう健康を害しているので、全く役に立たないんですけど、和光で採ってもらえませんか」と言いました。「まあまあ中性子をやっているんだったら(自分の研究室に来て良い)」と延與さんが言ってくれて、後は石川先生と延與さんで話をしていただいて、和光に移ったという形ですね。

足立:そうすると、そこでもまた物理の専門が変わったのですか。

大竹:そうですね。でもその時は、逆に中性子に戻ってきたっていう感じですね。

足立:播磨と和光で、一緒にやっている研究者の人数は変わりましたか。

大竹:播磨は、SPring-8という巨大な大型施設を立ち上げましょう。それから供用が始まりました。JASRI(高輝度光科学研究センター)も立ち上がりました。今は、兵庫県立大、昔の姫工大(姫路工業大学)の先生方とか、いろいろな形での、もう本当に大きい人数の所の中でした。私は石川先生のX線干渉の研究室でしたけれども、研究室単位というよりは、SPring-8全体でどうやっていきましょうかというような形でやっている中のいちメンバーとして、いろいろなことをやらせてもらっていました。和光に来てからは延與研ですが、延與放射線研も研究室の中では結構人数が多いと思います。あそこで過ごさせてもらって、少しずつ中性子を、また東海村の原研の方にも行く形でやらせてもらえました。規模として、それから扱っていることも全然違ってはきましたけれども、ある意味ではプローブ(探針)としての放射光からプローブとしての中性子に戻れたという形ですね。延與放射線研がメインでやっているBNLの実験などにはノータッチでした。ただスピン(物理研究)などは原子核素粒子が専門の時から興味はありましたので、自分の研究として何かやるかという意味でのアプローチはできませんでしたが、やっぱり放射線研にいたからこそいろいろな議論ができて良かったなと思っています。

新しいものづくりの分野へ

足立:そこから社会知創成事業の、ものづくり高度計測技術開発チームの副チームリーダーになられたきっかけは何ですか。

大竹:ちょうどですね、2001年から2011年まで理研の中で「ものつくり情報技術統合化研究プログラム」が牧野内ディレクターが代表となり開始しました。このプロジェクトは2005年からは「VCADシステム研究プログラム」となり、取り扱っている内容はものづくり分野におけるCAD・CAM・CAEといったソフトウェアを中心にしたところから、現物を破壊検査したり、さらに非破壊検査まで取り入れて、設計と現物の違いを反映させよう、といった内容で、鉄鋼材料から生物まで取り扱うプロジェクトが動いていました。その中でさまざまな非破壊計測に、割と大きいプロジェクトだったと思うのですが、取り組んでいた時に、中性子を測れる人、中性子で小型の中性子源でものづくりの現場で、という話題があった時に、和光で中性子をやっているグループが何人かいて、私もその中の一員でした。そこで関わっていたメンバーとして新しいものづくりの分野、またインフラに対してというのも設定して、新しい動きを作りましょうというチームを立ち上げたという流れです。だから大本のVCADのプロジェクトが11年で終了すると共に、後継プロジェクトがいくつかできたんです。そのうちの1つとして、中性子源を作っていくことを検討するチームが立ち上がりました。今、RAP(理研光量子工学研究領域:当時)で一緒の、和田領域(光量子技術基盤開発グループ)でチームリーダーをやっている山形豊さんがチームリーダーをしてくださって、私が副チームリーダーという形で一緒に立ち上げさせていただきました。

足立:チームリーダーを補佐する形で、どのくらいの人数の研究者や技師などと一緒でしたか。

大竹:その時の研究室メンバーとしては確か4人だったと思います。社会知創成事業で研究室に対して配布されていた年間予算が確か3,000万だったと思うので。ただ、私共は小型を作りたかったので、その中で2億近いお金がかかる。先ほど(写真を)撮っていただいたRANS(理研小型中性子源システム)、あの加速器を何とか入手したい、何とか始めたいと思っていました。なので、チームリーダーを補佐するというか、みんなで本当に一丸となってひたすら走り、走ってお金を集めて、また文科省にも行って、こういった新しい小型加速器ベースの小型中性子源というものがこれからどんどん重要になりますから、ということで活動を始めた。ちょうど震災の直後でしたから、当然福島の事故の影響があります。原子炉に対してのさまざまなことが起こっていた時でした。量子ビームとして加速器ベースというものの新しい局面になるということでした。その時、コアなメンバーは4名でしたけど、大本のVCADのプロジェクトがありましたので、他の研究室や、さまざまな関わり方をしていただいていたので、このプロジェクトでミーティングをやると、大抵10人から15人ぐらいの規模でしたね。

足立:新しいものを作るという時に議論がいろいろあったと思いますが、10人ぐらいの人々の意見をまとめるために、何か大竹先生が工夫されていたことはありますか?

大竹:ものづくりの小型中性子源プロジェクトに関しては、ちょうどこの研究室・チームを立ち上げるのと前後して、VCADの最後の頃に、検討会という委員会を立ち上げていただいて、検討会の報告書として中性子、小型中性子源に対してどういうニーズがあるかという調査、それから委員会の方たちでニーズ、それに必要な中性子線のある程度の、ざっくりですけれどもスペックと装置の規模を大体3~4カ月の委員会でまとめていました。なので、目指さなければいけない方向は非常にはっきりしていたので、後はそこに向かってどれだけ集中して進むかでした。集中して進むのは非常に得意なので、というよりそこでもたもたしていることができないので、ひたすら走ったっていう感じです。そのためには皆さんにご協力いただいてやっていくっていう形ですね。

PIとして再び研究室を構えて

足立:2013年から光量子工学研究センターでチームリーダーになられ、ここで正式にPIとして独立された形になるのでしょうか。

大竹:そうです。はい。

足立:その時に、どのようなチームにしようと思われましたか。

大竹:ちょうど10年ちょっと前になります。プロジェクトの大きな目標は、小型の中性子源という、世界的にどこまで何ができるのか、どのくらい社会の役に立つのか、を装置の開発、高度化開発研究と共に、具体的に応用例を示し、これまで考えられていたものより、さらに高度な中性子利用ができることを示していくことでした。そのためには、研究室で雇用する研究員の人数も10名前後は必要でした。しかも(定年制の研究員が雇用できる)主任(研究員)研究室じゃないですから、やはり任期制の研究員を多く雇うことになりますので、それぞれの研究者にとって、せっかく世界初のことをやるんだから、1人ひとり異なる所で、ちゃんとしたキャリアなり業績なりになって、その先に発展できるように。人生として、これは別にチームリーダーが与えるわけじゃなくて、本質的には自主的に気が付いてほしいわけですけれども、やはり1人ひとりの研究者がそれぞれの研究者の核となるものを持てるようにしたいと思いました。ですから、補佐ももちろんします。研究者1人では絶対に装置も作れないですし、実験もできなければ論文も書けないので、何人かである1つの課題に対して、3人とか5人とか7人という規模でオーバーラップしながら、いくつかの主題が立った時に、それぞれがある時は自分が主役になる、ある時は補佐になる、補佐になるけれども、ちゃんと力が発揮できる。そういうような形で、新しいことにそれぞれの人が、自分が主役で挑戦できるようになってほしいと思いました。その時の主役のあり方というのが、いわゆる縁の下の力持ちでも主役なんですよね。そういう発想ができないと、逆に装置に関わっていくような研究開発って、いわゆるサイエンスの中でも華々しい新しい材料を作りましたとか、新しい発見しましたというのとは違うので。みんな1人ひとり主役にはなってほしいけれども、その主役の在り方が派手ではなくても、ちゃんとその人その人の個性が光るような形での研究テーマを与えられてというか、見つけてもらって一緒に作り上げられるような、そういう集団の研究室にできればいいなと思いました。

足立:論文のファーストオーサー(第一著者)にならなくても、この人がいなければできなかったというようなイメージでしょうか。

大竹:そうです。はい。そのようなことは当然あります。普通のサイエンスの論文ですと、著者の人数は制限がないじゃないですか。私共がインフラを相手にして初めて知ったんですけれど、例えば物理学会だと学会発表がある時には論文を出さなくてもいいのですが、土木関係とかコンクリート関係で学会発表する時には論文誌に出してないといけないんですね、一緒に。しかも論文の著者も5人までとか4人までと制限がある。そうすると、装置十数人とかで(プロジェクトを)やっていると、もう著者にすら入れないんですよ。そういうところをどういうふうに運営していくかっていうのは、研究室運営(の面)で非常に難しい。今でもやっぱり解けてない問題です。当然著者になっていなくても、その人がいなければできないことって山ほどある。そうすると、その人はその人の分野でちゃんとした著者の論文が出るような力をつけていってほしい。本来的に言えば、テクニカルスタッフや非常に技術的に成熟した技術と研究と両方できるような方を、長期に雇えれば理想的なんですけれども。先ほども申し上げた通り、任期制で技術の方は、5年とか7年とか任期がある中で、こういう仕事の関わりをやっていただこうとすると、どうしてもマッチングがうまくいかなかったりします。研究者にやってもらわなきゃいけないことは増えますし、研究者の中でも割と技術的な所に得意な分野がある人は、ぱっと見、著者にすらなれないということは起こります。だから、そういう意味で応用を見て、基本的な開発をしていくことはものすごく難しいです。研究室の中で、できるだけそれぞれの人が自分の力が発揮できるような形でということは、今もなかなか問題全部は解決できていないですけれども、いつも(課題として)取り組んでいる感じですね。

足立:なかなか論文の著者には入れないけど、重要な仕事をしたものを発表できる場はまた別の学会とか集まりで見つけていくということでしょうか。

大竹:はい。PIが「じゃあここにありますから、これで発表してください」と言うのも、これまた親が子どもにご飯与えるのと違うので。中性子は基本的に大型施設でやっているので、大型施設、J-PARCであるとか3号炉であるとか、原子炉であるとかでやっている方たちも研究者で、装置担当研究者、いわゆるインスツルメンタル・サイエンティストは山ほどいます。やはりユーザーさんがいいサイエンスを持ってきて、そこで装置を動かしてという方たちがいらっしゃるので、そういう意味では学会発表であったり、割と技術的なことが主眼になっているような国際会議があったりするので、そういうものがありますよという案内はできるだけ出すようにしています。

足立:でも判断はご自身の自主性に任せているのですね。

大竹:なるべく任せています。どうしようもない時は、もう(あと)1週間で締め切りだよという時に個人的にちょっと話したりはしますけれども。本来的には私は、皆さん、躊躇せずに出しましょうねとは思ってますけれども、まあそれもそれぞれですから。

足立:チームリーダーで独立してやっていきます、となったきっかけは何かあるのですか。

大竹:ものづくり高度計測技術開発チームで副チームリーダーをやって、その時に一緒に作り上げていった山形さんは、元々がものづくりの方のご専門で、緑川(克美)先生が光量子工学研究領域を作られる時に、和田さんがまとめる(形でした)。光量子工学のいわゆる基本的なサイエンスの研究から、実社会に役立てるところの領域・分野を作られた時に、小型の中性子源の専門家として私はずっと中性子をやっていたので(チームリーダーに指名されました)。今後の発展という意味での展望も持てていましたし、実際に作り上げていくところいうのも(目標にできました)。山形さんは山形さんの研究室のチーム、彼は支援チームも持っているので、2つの研究室をお持ちになり、私は中性子をやる、という形でした。割り振りというんでしょうか、そういう形になりましたね。

PIの醍醐味

足立:チームリーダーになったからこそできたことは何かありますか?

大竹:山ほどありますね。多分、このプロジェクトはチームリーダーにならなかったら何もできてなかったと思います。特にRANSに関しては。この理研小型中性子源システムでのイメージングまでは当然どなたでもできますけれど、そこで中性子回折という中性子散乱の実験をやり、大型施設と同等の精度が常に出せることを示したこと、それからインフラ相手で、速い中性子を見て、ちゃんとしたコンクリートの構造物の中を非破壊で計測できるような計測技術、全く新しい計測技術を開発したのは、これは半分研究者としてチームリーダーをやっていなかったら(できなかった)。やっぱり社会の要望があって、実際の要望があって、それに応えようとしたからやりました。その他、ここでやっているいろいろな計測技術であるとか、外との関わりであるとか、共同研究であるとかは、やはりチームリーダーをやってなければ呼んでこれなかったですし、いろんな方との繋がりでも、多分PIじゃなければそこまで深い話ができなかったろうなということばかりですね。予算を獲ってきたのも、もちろんそうですけど、これも大変なような、嬉しいような、大変なような。大変なようなですけれどもね。

足立:チームリーダー、PIとして一番嬉しかったことは何ですか?

大竹:PIとして一番嬉しかったことは本当にいろいろありますけれども、何回かすごく嬉しかったことがあります。すごく嬉しいなと思ったのは、研究室の若手が学会で賞を取ったりとか、認められたりとか、それが私共が一生懸命積み重ねてきているRANS-IIであったり、RANS-IIIであったり、そういう開発を基にしたこと、それはもう本当に嬉しいですね。人が育っているし、なおかつ新しい挑戦をそういった形で認めてもらえるということ。やはりここのメンバーがそうやって外で認めてもらえることというのが、多分一番嬉しいことだと思います。

PIとしての試練

足立:逆に一番辛かったことは何でしょう。

大竹:一番辛かったことはまあ。辛いことは大抵忘れちゃうんですけれども。なので、覚えていることは今辛いこととか、ちょっと前に辛かったこととか、非常に長いこと継続して辛いこととか。実際に研究開発ですごく大変なことは、今申し上げたように、ある程度若い人なり中堅なりがどこかで認められてとか、今まで長年論文が出てなかった研究者がちゃんとファーストオーサーで論文、個々のテーマでちゃんとまとめられて出せたりとか、それはものすごく嬉しくて、それがあると大抵他のことは全部忘れるんですけれども。だんだんお陰様でこの世界の中でも小型として安定して動いているのが、幸いなことと言うか、もうどんどん世界でも他の小型が出てくるので、もうあと数年だとは思いますけれども、ずっと世界トップを走り続けているわけですね。小型としてこれだけの結果を出した。プロジェクトをこうやってリードさせていただいてやってきていると、私自身があちこちにお呼ばれして、いろいろな委員を頼まれたり、こっちでこういう話をしたり、世界のここで小型を作りたいからアドバイザーとしてお願いしますとかってやって、どんどん忙しくなってしまって、ここの研究室そのものに対して割く時間がどうしても短くなっている。短くなっているけれども、中でそれなりの体制を作っていて、中の人たちが役割分担して、それから私がいない分、逆に伸び伸びできるところもあるでしょうから、伸び伸びやってもらってということで、上手に回せていけるような感じかなと思ったのが、やはりコロナでかなり変わりました。今コロナ禍からまた前のようになりながら、やはり明らかに前とは違うフェーズでやってなきゃいけない時に、その中で今どうやって運営していくのかな、人を育てていくのかなというのが、今、辛いと言えば辛いですね。もちろん当然、予算を獲りますとか、プロジェクトを立ち上げますとか、外とどういう風にやっていきますかとかっていう、日常的に10も20もある困難さは決してなくならないので、いつもいつも疲れてるんですけど。ここの中の研究者がやはり、自分で実感しながら研究を続けていってほしいので、そのためには何か論文を出す所で終わらずに、その次に繋がって、そこでまた何らかのフィードバックがあって自分がやったことに対しての価値を見い出せるような、そういう歩みを続けていってほしいと思っているんですけど、なかなかそこも回せないのかなっていう。はい。辛いです。

足立:コロナが徐々に落ち着いてきて、皆がだいぶいろいろなことに対応できるようになってきて、それでもまだチャレンジングなこというのは具体的にどんなことでしょうか。

大竹:今仰っているのは、コロナから、体制としてということですか。

足立:そうです。

大竹:割と明確に出てきてしまっているのが、オンラインで国際会議もできるようになってしまったので、あまり元々外にどんどん出ていくことが得意ではない人が、自分の部屋で、オンラインで国際会議。確かにいいんだけど、それってどうよ、というのがあったり。その辺りのバランスで、結局、いろいろな会議の数ももちろん、コロナで増えちゃったんですよね。オンラインで手軽だから。なので、ものすごくそういう意味では忙しくもなった。けれどもやはり直接フェイストゥフェイスじゃなければできない情報交換とか、現場に行って装置を見なければ、また外の世界に触れなければ得られない刺激を得られない人は、コロナに入ってから3年以上を、得ないまま。やっぱり理研の中にいるだけではね。やっぱり外は外のスピードで進んでいるので、「じゃあ出ましょう」と言ってもね。皆さん、いい大人以上ですからね。そこは本当に(難しい)。さまざまな形で外の国際会議のチェア(議長)の方とかから問い合わせをいただけば、できるだけ若い人やうちの研究者を紹介してとかしますけれど、なかなかそれも限りがあります。だから、そういうところがちょっと今は難しいかなと思っています。オンラインもいいんですけどね。でもやはり現場に行ってほしいなと思います。

研究者としての「ジャンプ」

足立:大竹先生の研究者のキャリアを振り返って、一番のビッグジャンプ、この時変わったみたいな時点はいつぐらいですか。

大竹:えっとですね、それはやはりこの小型を始めた時ですね。

足立:そうすると、チームリーダーに?

大竹:その前の副チームリーダーになった時です。それまでは私自身、もっと物理に寄った研究をしていました。理研に移るとか、研究職を探していた時に、年齢的にもですけれども、40代後半か50代になったらば、世の中の役に立つことをやろうと思っていたら、こういった小型のプロジェクトに出会えて、というかそういう動きの中でそれを実現していくことを自分自身でできるという。これはもう本当に運がいいと言う以外ないと思うんですよね。私自身が別に小型をやるっていうことを0から立ち上げたわけでもないですし、周りがそういうニーズがありますといった流れになっていた。ただ実現していくには、かなり膨大な行動力と大変多くの協力者を得る必要があるので、そこでそれまでやっていた基礎物理の研究というのは、私自身はほぼ全部やめました。2012年、13年に、それまでやっていた原子核素粒子物理での研究は全部やめました。私はもうこれで、あとPIをやっていられる年齢の間だけ生きていればいいやと思った。私は2011年~2013年は、そのぐらい覚悟をして小型は世界トップで実現したいとやりましたね。だから、それをやらせてもらえるだけのチャンスをいただけたのは本当に大きいことです。

足立:そうすると、基礎物理の世界から足を洗うことになったと思うんですけれども、その時に迷いはなかったですか。

大竹:その時には迷いはなかったですね。迷いがなかったっていうのはですね、基礎物理でどんどん進んでいっちゃう所は進んでいっちゃうんですけど、進まない所は10年、20年してもずっと同じ上限値をまだ超えられない研究ってあるんですよね。とりあえず10年やってどのぐらいまで行ってるかなというところと、まあ戻れるチャンスがあれば必ず戻れる。また次のことを見つけられるような状況になればできるだろうなと、本当にうっすらとは思っていました。当時はもうこれで、それ(基礎物理)は専門でやってる人たちだけでやっていけばいい。逆に言えば、基礎物理をすごく一生懸命やっていたけど、大した結果も出なかったよなっていうのが、自分自身の自分に対する評価だったのかなとは思いますね。それなりにもちろん論文は出してましたし、それなりのことはしてましたが、やっぱり集中して何かをやっていこうというものの大きさだったり、それから新しさという意味では全く躊躇はなかったですね。

大型放射光施設「SPring-8」の立ち上げに携わって

足立:研究者のキャリアを振り返って、あの時ああしていればよかったとか、あの失敗はちょっと今でも引きずっているなみたいなことはありますか。

大竹:それがね、たぶん記憶力がないから、ないんですよね、あの時ああしてればは。例えばですね、私が最初に理化学研究所に入った放射光の時に、なんでもっと役に立ってなかったんだろうと思うことはあります。でも、どうしたらそれができたんだかは、今の私だと分かるんですよ、当然。そこはこういうふうにやったら良かったんじゃないのって。けれど、あの時、35、36、37(歳)の頃の私がそれに気付けたかっていうと、多分無理だったので、その中でもきっと何か一生懸命にはやってたのかなというくらいですかね。今日の話題のPIという意味では、やはり播磨のSPring-8のあれだけ大きいプロジェクトを立ち上げていく中で、もちろん当時理化学研究所の中だと植木(龍夫)先生という構造生物の先生が一番トップで、石川先生がいらして、その中で何人か装置を作っていったり、またはさまざまな研究をやっていくためのリーダーをやっている方たちがいた。そういう方たちが、先ほどちょっと申し上げたように、すごい多くの方たちがいたところを、最初の立ち上げだったので、本当に皆さん一緒にできた。そういう意味ではPIでもさまざまな役割があるじゃないですか。それを播磨でずっと一緒に見ながらできたのは、ものすごく大きい経験でしたね。全然たこつぼになってないんですよ。みんな一緒にやっていかないと(いけなかった)。(いついつに)最初10本のビームラインをオープン(供用開始)にしますよとなり、(間に合わせるために)必死にやって、その後、「じゃあどこがどういう結果を出してますか」、「どういうユーザーさん来てますか」というのも(皆で共有しました)。われわれ研究者も加速器の運転は準夜勤や夜勤をしながらやってましたから。そういうような形で関わらせていただいた。当時全く分からなかったですけれども、やっぱりいろいろなやり方、いろいろな方たちがいらした所で、皆一緒にできた。大きな所の立ち上げ期を経験させてもらったのは、ものすごく大きかったですね。

足立:100人以上の方々がキャンパスに集まって、日夜問わず必死にやってらしたのでしょうか。

大竹:そうです。一緒にやってた。しかも一番最初の頃は、理研・原研合同チームという格好ですから、文化が違う人たちも一緒にやってという形で。それはものすごく勉強になりましたね。10年、20年以上経っても、やっぱりあの時にいろいろな方たちと話させていただいたり、どのように進めていくのかを見られたのが本当大きいですね。

足立:集まっていた方々は、基礎物理寄りの方から工学寄りの方々までいるような感じでしたか。

大竹:ほとんど基礎物理の人はおらず、皆さん、放射光。加速器は加速器の方(たちが担当)で、こちらはビーム利用だったので、(接点が多かったのは)やっぱり放射光関係の方とか装置の方とかでした。割と装置寄りの方が多いですけれども。ただ、新しい動き、新しい建設でしたから、いろいろな分野の方、物性や材料系であるとか、いろいろな背景を持った方たちがいらしていた。当然システムを作る研究者もいますが、どちらかというとコンピュータを得意にされる方とか、いろいろな方たちがいらしたので、最初の半年ぐらいは共通言語が何なんだろうということで(探っていた)。こんにちはの後の会話は、一体何をこの人に言ったら次の会話になるんだろうと。今だとそれこそ、ひどくオタク的な方も多くいらっしゃいますからね。そういう所でどうやっていくんだろう、というのもありましたから、本当いろいろな意味ですごく良かったですね。あまり規模の小さい、分野が限られた中だけしか見ないよりは、広くそういうような所での経験が良いのかな。学会と違ってそういう所で、365日とは言わないですけれども、かなりな時間を一緒に過ごすというのは本当に良い経験でした。

足立:今、分野の多様性は伺ったのですが、そのプロジェクトはやはり日本人の男性が多かったですか。

大竹:そうですね、はい。でも、石川先生の研究室で私が一番よく話していたのは、日系ブラジル人の(女性)研究者だったので、日常生活はほとんど英語でしたね。あとはESRF、ヨーロッパの放射光で研究していたアメリカ人の研究者の方がいました。研究室の中は日本人が確かにマジョリティでしたが、全部で10人ぐらいで、その中にテクニカルスタッフもいた。私とそのブラジルの人が女性でした。アメリカ人の研究者もいたので、そういう意味では、ジェンダーバランスや国籍が広がっていたのも良かったのかもしれないですね。

足立:ありがとうございます。

研究者という職業を選んだ背景

松尾:いくつか質問させてください。一番最初に研究者は一生続けていきたいと仰ったんですけど、その動機というか原体験というか、学位を取られた時に決心されていた背景を教えていただけますか。

大竹:私、小さい頃から自分が何になりたいのか分からなかったんですね。よく大人は小さい子に何も考えずに、何になりたいの、と聞くじゃないですか。あの質問大嫌いで。答えられないから。高校に入った時に、いわゆる理数系が好きというのはもちろんあったんですけれども。あと語学で英語が好きとか、それから音楽はずっとやっていたので、音楽は好きとか。好きだけれど、ものにならないなと自分で思っていたのが、音楽と英語。理数系がものになるわけじゃなくて、これもものにならないんだけど、でもどうやっても好きだなと思っていた中で、高校に入って自分が好きなものが物理という分野だと分かった時に、私は一生物理をやっていきたいと思った、その時なぜか。なぜかというより、私自身のものの考え方は物理の考え方なので、これをずっと続けていくんだと思ったんです。それで、続けていくにはどうしたらいいかと言ったら、もう研究者なので。最初のハードルは、まず大学。高校の時なので、大学に入ること。その後、大学院に入ることで、次は学位を取ることで、と1個ずつ、1個ずつやっていったという格好ですね。

PIとして変わってきたこと

松尾:お話を伺っていると、その切り替えの早さとか、割り切りの良さみたいなものを感じるんですが、今長くPIをやっていらっしゃって、大竹先生がPIとして進化されてきたことが何か、振り返った時に思い起こされますか。

大竹:それは自分自身で変わってきたことっていう?

松尾:はい、PIとして。

大竹:私ね、最初の頃、まあ今もそうだと思うんですけど、すごい心が狭いんですよ。一生懸命になっちゃうと、皆一緒に一生懸命なつもりになっちゃうんですね。だけど、そんなわけはないじゃないですか。ご飯が好きな人もいれば、パンが好きな人もいれば、今は座っていたい人もいれば、走りたい人もいるっていう。それがね、PI最初でこの小型を立ち上げなきゃいけない、予算は獲ってこなきゃいけない、実績を出さなきゃいけない。新しいことをやっている時って、他のこともやりたい方もいらっしゃれば、それから攻撃したい方もいらっしゃれば、結構いろいろな方、周りにアクティブな方が多くてね。結構、年中、喧嘩されてたというか、いつも責められていたような気分でいたんですよ。なので、ものすごく余裕がなかった。今も、あまり余裕ないのかもしれないですけど。研究室のメンバーの歩み方のテンポだったり、やり方が違うっていうことは、私の目から見て、それを理解するのにすごく時間がかかったりした。なんでこうやらないの、とどうしても思っちゃっていた。もう最初の2年ぐらいは、そうですね。ちょうど、非常に幸い(なこと)に、最初2013年に研究室を始めて、鉄鋼企業の方たちと共同研究をして、割とすぐに良い結果が出て、プレスリリースもさせてもらって、論文も出てっていうので、そこは本当に運が良かったです。その時一生懸命やってくれた当時のポスドクの人、それから企業の、ものすごくいいサンプルを持ってきてくださった方なんか、本当に恵まれていて、1つちょっと大きい結果が出せて、少し一息というか、これでなんとか行くなと思いながら、次のRANS2号機の、RANS-IIに移っていくフェーズまでの間で、それをどう展開していくかを考えていた時。それから、それを実現するために何をしなきゃいけないかっていうところまで。だから、私自身はRANS-IIが形になるまでは本当に余裕がなかったと思いますね。小型1台だと誰でも簡単。誰でも簡単に、と言うとまたちょっと語弊があるかもしれないですけど。本当の目標に向かっていくために2号機作って、3号機作って、こうやってこうやるから、この目標が達せられますよというシナリオ、これは本当にいろいろな方とも相談しながらですけど、作らせてもらって、それを実行していくことをやりながらでした。私は周到な計画を立てて進んでいくことがあまりできないです。最初に明確なものというよりは、ある程度の目標があれば、後はもう走りながら考えながら作っていく。走りながらの最初の走っている時は余裕がなく、作りながらでした。多少作れて、ああこういうことかなと思って、いろいろなことを学びながらやっている感じです。本当にPIをやらせていただいて、ものすごくたくさんのことも学んだ。それから人それぞれのペースがあるところを、今どこまでだったら許容できるか、またはこの研究室を維持するためにはここが許容できない範囲なのか、できる範囲なのかと判断をする幅が広がってきたかなとは思います。

松尾:非常にいろいろな考え方の人たちがいるのをPIとしてまとめられて、そこで大きな成果が出た、その醍醐味を感じられた出来事はありますか。

大竹:今ちょっと申し上げた一番最初のプレスリリースです。その後2年ほど間が空きましたけれども、できる限り今、プレスリリースを毎年出すようにしているんですね。出すようにというのは、先ほども言った通り、主役になる研究者が論文を出して、そこでちゃんとそういう価値があるものだったら、プレスしましょうというのは、こちらから言う。それがちゃんとうまく、それなりに注目していただいて、新聞各社さん、関係新聞であったり、いろいろな所に取り上げていただいて、ちゃんと研究者の名前がそこに出ると、ものすごくほっとしますね。

女性が少ない分野の状況について

松尾:分野的には女性が必ずしも多くない分野だと思うんですが、そこに対して現状、問題意識として思っていらっしゃること、あるいはその解決策としてこういうことをもっとやればいいのにと思ってらっしゃることはおありでしょうか。

大竹:そうなんですよね。今までお話ししていないんですけど、私、実はSPring-8、理研に入る時に、ドイツの研究所、フンボルト財団でも実はアワード(賞)を獲っていたので、(ドイツ滞在費用が支給されるので)ドイツに行くかという話と両方あったんです。なんでドイツ、ヨーロッパに行こうと思ってたかと言うと、日本のこの男性社会に骨を埋めるほど私はいい人じゃない。100年言っても、このおじさんたちには分からないだろうと33歳ぐらいの私は思っていた。じゃあ30年経った今の私が、あの方たち分かるかって言うと、30年前よりは日本語が通じる方は増えましたね、男性の方で。ただ、通じ具合はちょっと難しいなというか、段階がやっぱりまだ必要だなと思っています。特に最近感じたのは、男性の方たちも本当に変わってきたんだなと思ったのは、昨年、私、日本中性子科学会で学会賞をいただいたんです。その学会賞なんて私はとても自分に関係ないものだと思っていたのを、推薦してくださる先生方がいらして、全員男性なんですよ。そういうことが起こると思っていませんでした、本当に。おじさんたちと言っても、本当に推薦してくれた人たちは私より若い人たちなんですけど、数年だけでも。他に推薦してくださった方たちで、私より年上の方もいらっしゃるんですけどね。ほとんどそういうことない。いなかったことにされることはあったにしても、そこにいますよとされることって、本当に少ない時代を生きてきた。いなかったかのようにやられるのは当たり前だったのが、いますよというか、しかも、いることが大丈夫ですよ、と。ある意味PIになれたのは、いることが大丈夫ですよと言われたかなという感じがした。でも、学会賞をいただくというか、推薦していただいた、というだけでも、ああ、世の中変わってきたんだなあと思いました。だから、あの時ヨーロッパへ行っていたらなと時々思うのは、私、ドイツのパンが好きなので、パン食べたいなと思う時は、向こうに行っても良かったなと。研究に関しては本当に日本でやっていて良かったなと思います。

松尾:ありがとうございます。

教員としてのキャリア

足立:高専でも学生さんを上手に指導されたり、理研でも人材育成に力を入れているようにお話を伺ったんですけれども、大学の教員になろうと思ったことはないですか。

大竹:高専で教えていた頃は思っていました。ですが、先ほど私、心が狭いんで、と言ったのと通じるんです。学生を教える、今も茨城大学の原子科学研究教育センター(RECAS)で年に1回、2日間だけ朝から晩まで集中講義したりとか、東大大学院の留学生が相手のある大きい講座の1コマを毎年教えたりというような、そのぐらいはするんです。学生さんを教える時に、人間を育てなきゃいけないじゃないですか。多分私自身は、40代、50代ぐらいまではできたかな。でも、今はちょっと難しいですね。専門を伝えることはできます。それから、相手に分かるように、私自身が専門にしていることを教えることはできます。でも、それを相手がちゃんと身につけて、そこで学生として理解してもらうようになる、または理解できるようにするために、手取り足取りしなくても、本人が分かるような準備なり手だてをちゃんとしていく。その手間がですね、多分もう今の私には、自分でできると思えないですね。なので、大学で教えてらっしゃる先生方や、人を教えていらっしゃる方たちは本当に偉いと思います。なんかそういうところが、中途半端にできないんですよね。できないと決めてはいけないですね。今のところはここで小型中性子源を一生懸命、ここの研究者の方たちと一緒にやっていくというのがいいなと思っています。

PIを目指す若手研究者へ

足立:最後ですが、PIを目指される若手研究者に向けて何かメッセージをお願いします。

大竹:はい。自分でやりたい研究、または実現したいことがある時には、一番の近道じゃないかもしれないですけれども、いいのは、やはりPIになるとそれが実現できると思うんですね。そのためにどのぐらい労力を払わなきゃいけないかとか、そうなった時にそのプラスの面とマイナスの面をもしも考えてしまうのであれば、ご自身がどれだけプラスがあると思えたら、自分の燃料になるか、前に進めるかっていうことを意識されるといいかなと思います。どこでどう生きてたってネガティブなことっていうのは絶対あるんですよ。でもネガティブなことの対処の仕方なんて、どこで生きていても一緒なので、そこを考えても仕方がない。で、ポジティブなことで、どれだけそれで自分の力なり、それから周りの方の力を結集して何かができるかというところだと思いますね。そういう意味では、30年前に、100年、ここのおじさんたちは変わらないと思ったのが、30年経ったら変わってましたから。非常に日本の男性は遅いですけれども、それでもやっぱり変わりますので、そこは希望を持って、ぜひ挑戦していってほしいと思います。

足立:どうもありがとうございました。

松尾:ありがとうございました。

インタビュー実施:2023年9月19日
インタビュー場所:中性子工学施設2階 N205室

RIKEN Elsevier Foundation Partnership Project
撮影・編集 西山朋子・小野田愛子(脳神経科学研究センター)
撮影支援・編集支援 雀部 正毅(広報部)
インタビュアー・製作支援 松尾寛子(ダイバーシティ推進課)
インタビュアー・製作 足立枝実子(ダイバーシティ推進課)

トランスクリプト

Top