「未踏の電磁波」と呼ばれてきたテラヘルツ波。最近になって光源や検出器の開発が進み、次世代の通信システム(6G)をはじめ、セキュリティや製薬などの分野への応用が始まっています。それと同時に、電磁波としての安全性を検証する研究も急がれます。そんな中、テラヘルツ波照射用の独自の実験装置を製作し、テラヘルツ波が細胞に影響を与えることを発見したのが保科 宏道 上級研究員です。
未開拓領域から利用可能な電磁波へ
電磁波は周波数(単位:Hz=ヘルツ)で分類され、周波数が低いラジオ波やマイクロ波は「電波」と呼ばれ、周波数が高い可視光などは「光」と呼ばれる。テラヘルツ波は、その電波と光の境界領域にある(図1)。つまり、さまざまな物体を透過して内部構造を捉えることができる電波の特徴と、スペクトル(色)情報を使って物質の構造解析ができる光の特徴、その二つを併せ持つのがテラヘルツ波なのだ。しかし、テラヘルツ波の発生・検出のデバイス開発となると、電波の技術を用いるには周波数が高すぎ、光の技術を使うにはエネルギーが低すぎるなど、克服すべき課題が多かった。
図1 テラヘルツ波と他の電磁波の関係
ラジオはメガヘルツ帯、スマホはギガヘルツ帯などと周波数に応じて用途が変わる。テラヘルツ波は0.1~10THzで、電波と光の両方の特性を併せ持つ。
理研は1990年、フォトダイナミクス研究センターを仙台に設置、1998年にはテラヘルツ波の研究に取り組むチームを開設した。さらに2005年にはテラヘルツ光研究プログラムをスタートさせるなど研究を本格化した。これらの研究は、実用的な光源や検出器の開発につながり、その成果は郵便物や空港での持ち物検査など、安全・安心な社会の実現に生かされている。
「最近では装置も普及してきた結果、専門家がテラヘルツ波そのものを研究する基礎研究フェーズから、さまざまな分野の人がテラヘルツ波をツールとして利用する応用フェーズに移ってきています」と保科 上級研究員は語る。
テラヘルツ波照射用の顕微鏡を独自開発
もともと物理化学を専門としていた保科 上級研究員は、2005年理研入所と同時にテラヘルツに出合い、テラヘルツ波を用いた研究をスタートした。当初はテラヘルツ波で「物質を見ると何が分かるのか」をテーマに、テラヘルツ分光やイメージングの研究を進めてきた。その後、テーマを展開させテラヘルツ波で「何が変わるのか」を明らかにすべく、これまであまり手の付けられていなかった物質に対するテラヘルツ波照射影響の研究に着手した。
当初は福井大学や大阪大学の共同利用施設にある大型テラヘルツ光源を利用しながら、細胞の骨格を構成するアクチンタンパク質に対するテラヘルツ波照射の研究を行った。その結果、テラヘルツ波照射が、単に細胞の温度を上昇させるだけでなく、非熱的にタンパク質分子の反応に影響を与えていることを発見した。
最近になって、テラヘルツ波の高出力な光源が小型・低価格化したため、実験室の顕微鏡にテラヘルツ波光源を組み込むことが可能になった。そこで生きている細胞にテラヘルツ波を照射しながら、その変化をじっくり観察した結果得られたのが今回の成果である。
これらの実験はテラヘルツ波を照射しながら行う必要があるが、一般的な蛍光顕微鏡では、生きた細胞にテラヘルツ波を照射しながら顕微鏡観察をすることが難しい。テラヘルツ波は試料となる細胞の培養液に強く吸収されるため、上部からの照射が難しく、試料下部から照射するにはスペースの確保が困難だ。そこで試料の下からテラヘルツ波を照射しながら、上部から蛍光画像を観察できるTHz-FRAP蛍光顕微鏡を開発した(図2)。
図2 THz-FRAP蛍光顕微鏡
テラヘルツ波が培地に吸収される影響を除くため、試料の下部からテラヘルツ波を照射する蛍光顕微鏡を製作した。
テラヘルツ波で「何が変わるのか」?
以前からテラヘルツ波が細胞膜に影響を与えるという説があったため、保科 上級研究員が、HeLa細胞(子宮頸がん細胞から樹立された細胞株)にテラヘルツ波を照射しながらFRAP測定をしたところ、ごくわずかではあるが、細胞膜の拡散速度が速くなることを発見した(図3)。
図3 細胞膜の拡散係数の温度変化
0.1~0.5THzのテラヘルツ連続波をHeLa細胞に照射した。すると、細胞の培養温度(約37℃)以下の低温域で0.10THzと0.29THzのテラヘルツ波を照射した際に、細胞膜内の脂質分子の拡散速度が速くなっていることを発見した。
一般的に細胞膜の拡散速度は温度が高いと速く、低いと遅いことが知られている。「テラヘルツ波の照射によって試料の温度はある程度上昇するので、そのせいかもしれないとも思いました。しかし慎重に温度上昇の影響を補正してみると、観測された拡散速度の変化は、温度上昇では説明できないものでした」
注目したのは、この現象が細胞培養温度より低い温度でのみ観測されたこと。通常、細胞膜を構成する脂質分子は、温度が低下すると分子運動が緩やかになり、細胞培養温度より下では秩序相が増えることが知られている。
「テラヘルツ波の照射によって、低温で存在する細胞膜の秩序相が無秩序相へと相転移した結果、拡散が速くなったのではないか?という一つの仮説が浮かびました」
そこで細胞膜分子の相変化によって波長の変わる蛍光色素(Laurdan)で細胞膜を染色し、テラヘルツ波照射下の変化を検証したところ、低温で秩序相を取っている細胞膜が無秩序化されていることが判明し、仮説が正しいことが示された。
慎重な態度で正しい理解に貢献
もしテラヘルツ波による細胞膜の変化を利用して、細胞の性質や機能を変えることができるなら、新しい医療が生まれるかもしれない。しかし一方で、「テラヘルツ波」というワードを冠しただけの商品や科学的根拠の全くない解説動画も出回っている。全く効果がないと思われるゲルマニウムやシリコンでつくられたものが「テラヘルツ健康グッズ」として販売されている実情を見ると、今回の研究成果が、それらの販売活動にも利用されかねないこと、成果を拡大解釈し悪用されてもおかしくないことに危機感を覚えている。
「安易に展望を語ることは、根拠のない成果を流布させる恐れがあります。多様な現象が絡み合って発現している細胞機能の根底にあるメカニズムは何か?ということを一つ一つ解明していく。それらの研究を通して、テラヘルツ波という新しい光が、何をどのように変えることが可能なのか明らかにしていきたいと思います」
関連リンク
- 2025年5月13日プレスリリース「テラヘルツ波が細胞膜の相転移を誘起」
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