恐怖を感じた体験は、強く記憶に残ります。しかし、恐怖の記憶を支えるのは、体験の瞬間の神経活動だけではありません。長井 淳 チームディレクターの研究チームは、後日その体験を思い出す「想起」のタイミングで、記憶を安定化させる仕組みを明らかにしました。脳は、電気信号で情報を伝達する神経細胞(ニューロン)と、その隙間を糊(グルー)のように埋めるグリア細胞からなります。これまで、記憶の情報は特定の神経細胞群に保存されることがわかっていましたが、グリア細胞の関与の詳細は不明でした。ところが、グリア細胞の一種であるアストロサイト(星状膠細胞)がこうした記憶を脳に定着させる「安定化スイッチ」の役割を果たしていることが分かってきました。
ニューロンとグリア細胞の相互作用に興味
「小学生の頃、支援学級の友だちと遊ぶことも多かったのですが、彼らが抱える脳の問題は、当時は解決できないと言われていました。子ども心に、脳のことが分かれば友だちの役に立つかもと思いました。それが、脳の細胞メカニズムを明らかにしたいと考えるようになったきっかけです」
そう振り返る長井 淳 チームディレクターは、早稲田大学大学院 生命医科学専攻でニューロンについて学び、2015年に博士(理学)を取得。この頃、研究者の数が今ほどはいなかったグリア細胞に興味を持ち、2016年4月、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 医学部でアストロサイトの研究を始めた。2020年11月、理研 脳神経科学研究センター(CBS)でラボを立ち上げ、「なぜ私たちの脳はグリア細胞が必要なのか」という問いに挑んでいる。
アストロサイトの反応を全脳レベルで見る
脳細胞の記憶の研究としては、マウスで、恐怖体験の直後とその体験を思い出したときのニューロンの活動を比較する実験が知られていた。そこで研究チームは、アストロサイトの活動について、ニューロンと同様の比較実験を行うことにした。そのために、静脈注射で脳全体に必要な遺伝学ツールが届けられる新たな分子生物学的方法を開発。これに既存の技術を組み合わせて、恐怖体験・想起中のアストロサイトの反応を全脳レベルで観察できる実験に取り組んだ。
実験では、遺伝子操作したマウスに電気ショックを与え、「恐怖」という「強い感情」を起こさせる。恐怖に伴い脳内でアストロサイトが活動すると、刺激に対してまず反応する最初期遺伝子(Fos遺伝子)が発現する。それに伴って蛍光タンパク質を合成させて、反応した細胞を蛍光標識する。ただし、蛍光タンパク質の合成は4-OHT(4-ヒドロキシタモキシフェン)を投与したときにのみ起こるよう制御する。こうすると、見たいタイミングに4-OHTを投与すれば、脳のどこにどれだけ恐怖に関連したアストロサイト活動があるかが分かるのだ。
探究的な研究で画期的な発見
「仮説にとらわれず、一つ一つ検証していくのが好きなんです。探究こそが研究の醍醐味だと思っています」と長井 チームディレクターは話す。
そこで、実験は4-OHTの投与の仕方を変えて実施した。まず、恐怖体験を与えない「電気ショックなしで投与」、恐怖体験(1回目の体験)を与えてすぐの「電気ショック直後に投与」、恐怖体験の1日後に実験場に連れて行ったとき(2回目の体験)の「電気ショックから1日後に投与」という三つのパターンを設定した(図1)。まず得られたのは、「電気ショックなし」と「電気ショック直後」の実験結果だ。いずれもアストロサイトの反応は乏しく、電気ショックの有無の差はほぼなかった。アストロサイトと記憶のメカニズムの関連性は低いのだろうか。
「がっかりしました。しかし、そのあと、『電気ショックから1日後』のパターンの結果の画像を見て驚きました。こちらの反応はすごかったんです」
図1 四つの条件下におけるアストロサイトの比較実験
電気ショックから1日後のマウスでアストロサイトが強く反応したのは、実験場に移されたことで、1日前に電気ショックを与えられたときの恐怖体験を思い出したためではないかと考えた。
「思い出すこととは関係なく、単に時間が経過したことで反応しただけでは?」という可能性を排除するため、四つ目のパターンとして「電気ショックから1日後、電気ショックを与えた実験場ではなく、飼育環境で4-OHTを投与」の実験を追加。このパターンでは、アストロサイトは体験直後よりも反応はしたが、実験場に移したマウスの反応には及ばなかった。これで「アストロサイトは恐怖体験直後より、のちにその恐怖体験を思い出したときの方が反応する」ことが確かめられた。
アストロサイトが記憶の安定化に寄与
この実験結果を、CBSで2カ月に1回開催される、PI(チームディレクターなどの研究室主宰者)の集まりで発表して意見を求めた。「みなさん、意味は分からないけど面白い研究だと言ってくれました」。専門分野の枠を超えた横断的な議論がヒントとなり、次の展開につながった。
恐怖体験を思い出したときに反応したアストロサイト群に注目し、その変化を分子レベルで解析したところ、恐怖を体験すると、アストロサイトは「アドレナリン受容体」を数時間から数日かけて増やすことが分かった。これは記憶の固定や感情調整などに重要な役割を担う神経伝達物質(ノルアドレナリン)に応答する受容体だ。
「また怖いことが起こるかもしれない、と次の恐怖体験に備える"準備状態"に入っていると考えられます」。そして、再び恐怖を感じたときには、アドレナリン受容体が多いほど反応するアストロサイトの数も増えていた。
また、準備状態にあるアストロサイトは、恐怖を想起したとき、感情に関わるノルアドレナリン神経活動だけでなく、記憶に関わるエングラム神経活動を同時に感知することで、Fos遺伝子を発現させることも確かめられた。そして、Fos遺伝子の発現により、Igfbp2(脳回路を固定化に導く分子)が分泌されていた。「Igfbp2が『安定化因子』として働いているのです」(図2)
図2 恐怖体験時と回想時のアストロサイトの変化
ところが、恐怖体験から14日後に恐怖を思い出させる実験をしても、恐怖に対応するアストロサイト群は形成されなかった。「タイミングが重要です。そのタイミングを左右するのが、恐怖体験に備える“準備状態”なのです。準備状態は3日までは保たれることを確認していますが、14日後には普通の状態に戻っていました」
研究チームは最後に、恐怖想起時のアストロサイトの役割を確認した。アストロサイトの活動を抑制した状態で恐怖を思い出させると恐怖記憶は不安定になり必ずしも定着しなかった。逆に、アストロサイトのアドレナリン受容体を強制的に発現させた状態で思い出させると、恐怖体験をしていない場所でも身をすくませるPTSD(心的外傷後ストレス障害)のような状態になることが観察された。これらの結果は、アストロサイトが「どの記憶を選び、残すか」という記憶の「思い出しやすさ(安定性)」を調節していることを示している。
「私には、脳の疾患を治したいというモチベーションがあります。将来的にアストロサイトと記憶のメカニズムの研究が進めば、脳の理解も進み、テーラーメードな治療の突破口が開けるかもしれません」
関連リンク
- 2025年10月16日プレスリリース「思い出を「選んで残す」メカニズムを解明」
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