遺伝情報(ゲノム)はDNAに刻み込まれ、そこには、生命の基本的な設計図である遺伝子が含まれています。こうした情報とは別に、「遺伝子の取扱説明書」のようなものがあることをご存じでしょうか。これをエピゲノムと呼びます。井上 梓 チームディレクターは、卵子形成の過程におけるエピゲノムの解明に取り組んでいます。最新の研究成果により、卵子のエピゲノムは受精後の胎児・胎盤の発育や妊娠の維持に重要な役割を果たしていることが分かってきました。発生から出生、成長、老化に至るライフコースの理解につながる「生命の知恵」について話を聞きました。
最初の興味は受精卵
エピゲノム(図1)という概念は1940年代に提唱された。エピ(epi)とは「後から追加された」という意味で、ゲノムに追加された情報を指し、その正体はDNAやその周りのタンパク質につく化学的な飾りだ。病気のメカニズムの解明や、治療や創薬などに役立つとされる注目の研究分野だ。
図1 エピゲノムとは
ゲノムに含まれる遺伝子は生命の設計図で、エピゲノムは「遺伝子の取扱説明書」のようなもの。エピゲノムには、DNAの特定の領域にメチル基が付く「DNAのメチル化」と、DNAが巻き付いている「ヒストン」と呼ばれるタンパク質に化学的な飾りが付く「ヒストン修飾」という代表的な二つの仕組みがある。
「もともとは、受精卵という1個の細胞から、巨大で複雑な生物がなぜできるのか、この仕組みを知りたかったのです」と、井上 チームディレクター。
私たちの体をつくる細胞には、神経細胞、筋細胞など役割ごとにたくさんの種類があり、DNAという設計図を基に分化している。ところが、卵子と精子という生殖細胞として分化しきった細胞同士が受精して受精卵になると、どんな細胞にでも分化できる全能性を発揮する。そのためにはどこかで「初期化」が起きなくてはならず、卵子と精子のそれぞれのエピゲノムも初期化されるはずだと考えられていた。
「卵子と精子は受精後に初期化が起きていますが、完全に初期化されて真っさらの状態になるのではなく、エピゲノムの一部は初期化されずに次世代に受け継がれるのです」。井上 チームディレクターは2017年、哺乳類において受精後に初期化されない、卵子に由来するエピゲノムを新たに発見した。
「生育環境など生きていく中で経験する後天的な要因は、基本的にDNA配列を変化させません。しかし、化学的な飾りであるエピゲノムは、生活習慣や環境の影響など後天的な要因で変わる可能性があります。ゲノムの変化を伴わずに、遺伝のような現象が起こっているのかもしれない。それをもっと突き詰めたいのです」
マウスの卵を用い顕微操作を行う。生殖や発生の仕組みを明らかにする研究には顕微鏡が欠かせない。
ヒストン修飾を研究対象に
エピゲノムには代表的な二つの仕組みがある。DNAの特定の領域にメチル基が付く「DNAのメチル化」と、DNAが巻き付いている「ヒストン」と呼ばれるタンパク質に化学的な飾りが付く「ヒストン修飾」だ(図1)。井上 チームディレクターは主に、ヒストン修飾を研究している。
注目したのは、"H3K27me3"と呼ばれるヒストン修飾。これは遺伝子の働きを抑えるヒストン修飾の一つであり、井上 チームディレクターは2017年に、これが次世代に伝わるエピゲノムであることを突き止めた。「このエピゲノムは個体発生や胎盤形成に重要な役割を果たしていることを明らかにしましたが、どうしてそうなるのかを解明したい。また、どうやって卵子でこのヒストン修飾が確立されるのかを知りたいのです」
卵子の成長過程を世界最高水準の精度で解析
修飾が追加されることを「確立」と呼ぶが、卵子が形成されるときにH3K27me3が正しく確立されることで、受精後の発生過程において胎児の発育や胎盤形成が正常に行われる。研究チームはこれまでに、H3K27me3の確立には、まず"H2Aub"と呼ばれる別の修飾が必要なことを突き止めていた。そこで、H3K27me3とH2Aub、その他のヒストン修飾が、卵子の成長の初期から完了までにどう変化していくかを、「微量クロマチン免疫シーケンス法」を使って詳しく観察した。簡単に言うと、断片化されたDNAとヒストンのセットを取り出し、H3K27me3などの特定の目印がついているDNAの場所を読み取る手法だ。
「100細胞ほどのごく少量の検体で分析できるのは、私たちの強みです」。その精度は、世界最高水準を誇る。細胞の数が限られる卵子を対象とする研究にはうってつけなのだ。
このようにして分かったのが、卵子の成長過程ではまずH2Aubおよび"H3K4me3"というまた別のヒストン修飾があり、最後にH3K27me3という順番で確立されることだった。
三つのヒストン修飾の性質はこうだ。「H2Aubは遺伝子の発現を抑える役割(オフ)を持ち、H3K4me3は遺伝子を活性化(オン)させます。そして問題のH3K27me3は、活性化している遺伝子には確立しにくいという特徴があります」。そこで、H3K27me3が確立するためには、H3K4me3の活性化機能が、オフマークH2Aubによって打ち消され、遺伝子の発現が抑制される必要がある、という仮説を立てた。
バランスの上にあるエピゲノムの生成過程
仮説の検証のため、オフマークのヒストン修飾を欠損させた卵子を作製しエピゲノムを解析した。その結果、オンマークのヒストン修飾が活性化し、H3K27me3は消えてしまった。一方、オンマークもなくした卵子を作製したところ、遺伝子の発現が抑えられH3K27me3が確立された。
「卵子の成長過程で、H2AubのオフとH3K4me3のオンのバランスが重要です。オフが優勢になるとH3K27me3が形成され、オンが優勢になるとH3K27me3が消えてしまいます。てんびんをイメージしてみてください」(図2)。重要なエピゲノムの生成過程を初めて解明したことになる。
図2 エピゲノムの確立を左右する遺伝子てんびん
H2Aubは遺伝子の発現を抑える役割(オフ)を持ち、H3K4me3は遺伝子を活性化(オン)させる。オフが優勢になるとH3K27me3が形成され、オンが優勢になるとH3K27me3が消えてしまう。
狙いは胎盤の過剰成長の抑制
さらに、これらの卵子を受精させて出生までの発生を観察した結果、H3K27me3が消えた卵では、胎盤が大きくなり過ぎるという異常が起きたが、H3K27me3が確立した卵では正常な胎盤ができた。
「実は、卵子に由来するH3K27me3は、受精後の発生過程を通じて胎盤の成長に関係する遺伝子を抑制します。H3K27me3がないと胎盤成長を促す遺伝子が過剰に働いてしまい、胎盤は大きくなりすぎるのです。これは母体には負担になるかもしれません」と井上 チームディレクターは説明する。H3K27me3は卵子のエピゲノムであり、父由来の精子にはこのようなエピゲノムはない。つまり、このエピゲノムは母側が胎児に伝えたい情報なのだ。「女性は母体、すなわち自分自身を守るために、卵子に託した自身の遺伝子に胎盤の過剰成長を抑えるエピゲノムを盛り込み、将来の妊娠期間中の負担が過剰にならないようにしているといえます。卵は将来、自分の一部が胎盤になることなど知らないはずなのに、まるで何年も先を見越しているようにエピゲノムを準備しています。実に不思議ですよね。頭脳を持たない細胞ですが、私には、何かを考えているように思えてならないのです」
これらの実験は、マウスの卵で行われた。ヒトでも同様のメカニズムがあるかどうかはまだ分からない。「植物でも、哺乳類の胎盤にあたる『胚乳』という組織で似たような仕組みがあるようです。この研究に取り組む前には、自分の研究にここまでの発展性があるとは考えていませんでした。純粋に研究が楽しいから取り組んだのです。やはり研究はやめられません」
恩師から譲り受けたヒストンの模型を使って説明する井上 チームディレクター
お知らせ
2026年8月30日に東京お台場の日本科学未来館で開催する「理化学研究所 科学講演会2026『ライフコース:めぐる生命(いのち)の不思議』」に井上 梓チームディレクターが登壇します。
関連リンク
- 2026年4月14日プレスリリース「世代を超えるエピゲノムの確立機構を解明」
- 2024年10月31日プレリリース「発生最初期の遺伝子スイッチの作り方」
- 『RIKEN NEWS』2020年10月号FACE「母体から卵子、受精卵へ。その情報伝達に迫る研究者」
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